スマイル・フォー・ミー
人に喜んでもらうのが好きだ。自分が好意でやったことを笑顔で応えてくれると、体も心も飛び跳ねるぐらい嬉しい気持ちになる。誰かに必要とされたいというわけでも、見返りを求めているわけでもなく、とにかく自分が尽くすことで少しでも笑顔を見せてくれたらそれでいい。人の喜びを自分の喜びとして感じることができたときの、あの溶け込む瞬間がたまらなく好きだ。
この前、床屋の待合スペースで自分の持ってきた本を読んでいたとき、この面白い本を、ぜひ他の人にも読んでもらいたいという欲求に突然駆られた。自分は本を、本棚の一番目立つところに置いた。髪を切ってもらっているときに、鏡に映る本棚をふと見ると、自分の持ってきた本はなくなっていて、それはつまり、誰かがそれを読んでいるということを示していた。体中が満足という名の液体に浸されていくような、ぞくぞくとした気持ちになった。理容師が席を外した隙に待合スペースに顔を向けると、自分の持ってきた本を読んでいたのは小学生ぐらいの男の子だった。あんな幼い子がはたしてあの本を面白いと思ってくれるのだろうか、それなら隣に座る大学生ぐらいのお兄さんのほうが楽しんでくれるのではないか、それならなんで先に本を手に取ってくれなかったのだろう、頭を洗ってもらいながらそんなことを考えていた。
最後のスタイリングが終わっても、自分の持ってきた本はまだ男の子の手元にあった。もう帰るから返してほしかったが、せっかく読んでくれているのに、きっと面白いと思って読んでくれている最中なのに、なんだか邪魔をしたら悪いのではないかと思って、何も言えなかった。
会計中も男の子の様子をじっと眺めていたら、理容師が「ん? あの本って、たしか君が持ってきた本だったよね? あれ? なんであの子が持ってんのかなぁ」と不思議そうな表情を浮かべ、「ねえ僕ぅ、ちょっと悪いんだけどさぁ、その本、あのお兄ちゃんのものだから返してもらえるかなぁ。あ、ありがとぉ。ごめんね」と男の子に言い寄ってくれたおかげで、また自分の手元に戻ってきた。
しかし、途中までしか読んでいないとなるとこの本の面白さをあまりわかってくれていないのではないか、むしろ貸してあげたほうがよかったのではないか、とも思ったが、読んでいるときの男の子の表情は心なしか満足そうだったのが救いだった。
今日最後の講義が終わった。二号館を出て、そのままキャンパスを後にした。帰りはミスドに寄ってドーナツでも買って帰ろうと急に思い立った。父も母も姉もきっと仕事で疲れているだろうから、自分がドーナツを買ってきたら、きっと喜んでくれるだろう。ありがとうの言葉とともに、素敵な笑顔を見せてくれるだろう。とにかく喜んでほしい。楽しい家族団らんの時間にするためにも、ドーナツの甘さによって和やかな雰囲気を醸し出させたかった。
駅前にある喫茶店の横を通りかかったとき、見知らぬ男に声をかけられた。
「※$◎&□¥%#=×@、#〇&%×*+@×$※!◎#&%×*+¥◇?」
何を言っているのか全然わからなかった。
「※$◎&□¥%#=×@、#〇&%×*+@×$※!◎#&%×*+¥◇?」
再度聞かれたが、やはり何を言っているのか全然わからないし、少なくとも英語ではないようだし、第二外国語は中国語を履修しているがそれらしい発音でもない。フランス語だとか、スペイン語だとか、ロシア語だとか、それっぽい感じでもないし、顔からしてアジア系の人でもなさそうだ。まったく聞いた覚えのない言葉であるのはたしかだが、ただ単に自分が知らないだけなのかもしれない。
何語なのかわからない以上、下手に適当なことを言うべきではないと思い、何も言えずにいると、男は「%◎#*×=!」とやはり何を言っているのかわからない言葉をぶつけてきて、鞍替えするように別の人に声をかけた。
急に気恥ずかしくなった自分は、そそくさと改札を抜けて、ホームに向かう。ああいうときはどうすればよかったのだろうか。普通に日本語で話せばよかったのだろうか。たとえ、何を言いたいのかがなんとなくわかったとしても、はたしてそれは自分が答えられる範疇のことだったのだろうか。結局はあの外国人を助けることができなかったのではないか。何もできずにいた自分がひどく情けなくて嫌になってくるし、それよりも、困っていたあの外国人を笑顔にしてあげられなかったことがとても悔やまれる。
憂鬱な気分を引きずったまま電車を降り、徒歩5分ほどの所にあるミスドに入った。列に並ぶ。すぐ後ろに並んでいた親子が「ピカチュウのやつが欲しいぃ」「ゲットしようね」「あぁ、なくなっちゃうぅ」「まだ大丈夫よ」と言い合っている。
自分はトレーとトングを手に持ち、ショーケースの扉を開けてドーナツを取っていく。そして残り一つとなっていたピカチュウのドーナツを掴もうとしたとき、妙な視線を感じて振り向くと、後ろの親子が少し寂しそうな目で自分を見ていた。戸惑った。姉は可愛いキャラクターものが好きだから、ピカチュウのドーナツを買ってきたらきっと喜んでくれるだろう。しかし、後ろの子供も物欲しそうにピカチュウのドーナツを見ている。どうするべきか。気づけば、前の人との差が開いていく。後ろも行列ができているからこれ以上立ち止まっていては迷惑だ。そう思っているうちに、手に持ったトングは自然とピカチュウのドーナツを掴むと、それはすとんとトレーに乗った。ドーナツになったピカチュウが自分に微笑みかけてくる。だが、後ろの子供を見ると、悲しそうな顔をしていた。
「ああん、ピカチュウ取られたぁ」
「あぁ、残念だったね。じゃあ、他のドーナツにしよか」
「う~、ピカチュウがよかったぁ~」
「しょうがないでしょ。我慢して」
なんだか自分が悪いことをしてしまったかのような心境になった。またか。この、シャボン玉のように割れて消えてしまいたい感じ。ああ、もう嫌だ。これ以上憂鬱さにさいなまれたくなかったので、このピカチュウのドーナツをあの子に譲ってあげよう。でも、前の人のレジが終わって、「次の方どうぞ」と呼ばれている。早くこれをあの子に譲ってあげなければ。でも、遠慮でもされたりしたらどうしよう。それより後ろがつかえているから早く進まなければ。いや、でも、でも……頭が熱くなってきて混乱をきたしてきたとき、「補充が入りま~す」という言葉とともに、ピカチュウのドーナツが再び大勢の仲間とともにショーケース越しに顔を見せた。
自分はホッと胸をなでおろして、レジに駆け込んだ。後ろの子供は嬉しそうにはしゃいでいた。
その帰り道、公園の中を突っ切っていると、ベンチに置かれたNintendo Switchの本体が目に入ってきた。今、向こうでサッカーをしている少年らのうち誰かのものだろう。その横にそっと座り、チラッと本体を見た。よく見ると、ジョイコンが自分の持っているものとは違う色だった。
少年らを一瞥してから、なんのゲームをやっているのか、カセットをそっと取り出してみると、スプラトゥーンの最新作だった。自分は持っているが、俺もやってみたいんだよねぇ~、今度買っちゃおうかなぁ~と友人が言っていたのをふと思い出した。もしもこれを、友人にあげたら、きっと喜んでくれるだろう。少年らがこちらを見ていないのを確認してから、手に持っていたカセットを自分のトートバッグにさっと入れた。そして、しれっとその場から立ち去ったのだった。
翌日、大学の構内で友人を見つけたので声をかけた。
「お疲れ」
「おお! ん? あれっ、三限は何も入れてないんだっけ?」
「いや、三限の講義は休みになったから。それより、はいこれ」
「えっ、何これ……ってスプラ? しかも3のほう? えっ、なんで?」
「あげる」
「えぇーっ! や、えっ、これ、くれんの? マジで?」
「うん」
「えっ、ってかなんで?」
「欲しいって言ってたし」
「や、言ってたけど、これ、えっ、でも……ってかなんで持ってんの? えっ、自分のは?」
「もちろんあるよ。だって、二つ持っててもしょうがないし。だからあげる」
「や、ってかなんで二つも持ってんの」
「えと、それは……」知らない少年のものを盗んできたとはとてもじゃないが言えないことに今さら気づいてしまって戸惑った。
「まさか、買ったの? 俺のために?」
「えっ、あ、あぁ、まあ、そんな感じ……」
「はあ? えっ、バカなの? ってかなんで? なんで? なんで買った? や、これ、普通に六千円ぐらいすんのに、えっ、俺の誕生日プレゼント? ってか誕生日まだ先なの知ってるよね? じゃあ、何? なんかの記念日? なんだ? なんだ? なんのだ? えっ、自分と出会った日とか? それとも、自分と一緒に仙台に旅行行った記念日とか? はあ? それだけで六千円も払ってゲーム買ってくるか普通? まあ、たとえ誕生日でもそこまでのやつ買ってくるかなぁ。ってか俺ら大学生だよね? お金もそんな持ってねぇし、そりゃあ社会人とかならまだわかるけど、や、社会人でもこういうのってプレゼントすんのかなぁ。普通はハンカチとか靴下とかそういうやつでしょ? 恋人でもないのに、えっ、待って、ってか俺の価値観がおかしいってこと?」
「あ、いや、買ったっていうか、なんていうか、その、け、懸賞で当たったって感じで……」
「あぁ、懸賞かぁ。なるほど。まあ、それならまだわかるんだけど、でも、なんかちょっと、うーん、気味悪ぃなっていうか、しかも、カセットだけってのもなんか……」
「あ、それ、パッ、パッケージの箱は、えと、えと、さ、最初から付いてなかったから」
「へぇー」
別に嬉しそうな顔をすることもなく、ただぽかんとしている友人になんだか失望してしまい、じゃあまたあとで、と言って逃げるようにその場から離れた。
四号館三階のエレベーター付近にあるトイレに入り、個室で一息ついてから、廊下の突き当たり手前右側のセミナー室に入った。すでに二列目の一番前の席二つを陣取っていた友人を避けるように、自分はその列の一番後ろの席に座った。先ほど友人の、心から喜んでいないような表情と、気味悪がられたのがどうも癪に障ったので、何か、他のもので喜ばせることはできないかと考えた。そういえば前に、同じゼミの坂本さんと、一発ヤッてみてぇなぁと口にしていたのをふと思い出した。それなら、自分が間を取り持って、ラブホとかでヤれるように二人をうまくそそのかすことができればいいのだが、そもそも自分は坂本さんと話す機会がまったくないし、たとえ運良く連絡先を聞けたとしても、自分ならまだしも、「雄也とセックスしてほしい」なんていきなり伝えたところで、承諾してくれないのは目に見えている。
そんなことを考えていたら、当の本人が教室に入ってきた。今日の坂本さんは黒の台形スカートに花柄のレーストップスで、メリハリのある春らしい服装だ。可愛い。元々が可愛いのに、フェミニンさが増していてすごく可愛い。なんだかムラムラしてきた。坂本さんは通路を隔てた隣の席に座った。良い香りが漂ってくる。たまらない。友人がヤりたいと思うのも痛いほどわかるし、何よりあの豊かなおっぱいを鷲掴みしてみたくなる。いや、ダメだダメだ。自分本位で考えてどうする。あくまでも友人のために何かできることを考えなければ。でもまあ、セックスにせよ、おっぱい鷲掴みにせよ、彼女の合意がなければ、結局は何もできない。それだったらもう、いっそのこと二人で、襲う形で無理やりでもするしかないのだが、そんなことしたら完全に人生が終了してしまう。それに、友人が自ら進んでそこまでするとは決して思えない。だからこそ、自分がなんとかして願いを叶えてあげなければ。
ゼミが始まったが、今はそれどころではない。何か、坂本さんに気づかれないで、彼女の裸を堪能できる良い方法はないのだろうか。ああ、そうだ。それじゃあ、彼女の裸の写真をこっそり撮ってみるのはどうだろう。あの可愛い坂本さんの裸を見れるだけでも友人はきっと喜んでくれるだろう。ただ、どうやって彼女の裸を撮ればいいのだろうか。帰宅する彼女を尾行し、住んでいる所を突き止め、空き巣みたいに忍び込むのはどうだろう。いや、しかし、クローゼットの中やベッドの下に隠れていても見つかるリスクは高いし、家族が同居でもしていたら大変だ。それなら、窓の外から彼女の入浴シーンを撮影するとか。人目がつかず、安全に覗ける場所があればいいのだが、もし見つかってしまって、ドラえもんのしずかちゃんみたいにお湯をかけられ、スマホが濡れて壊れたりでもしたらそれはそれは困るし、そもそも窓のない風呂場だったら意味がない。じゃあ、屋根裏から風呂場の上に移動して、天井に穴を開けてそこから撮影するとか。いや、そこまでの準備に相当手間がかかってしまうだろうし、それに、彼女が風呂に入るまでじっと待ち続けるのは明らかに効率が悪い。
ああでもないこうでもないと考えていたら、ふと坂本さんのまぶしい生脚が目に入ってきた。ああ、そうだ。彼女のスカートの中を撮ろう。それなら手っ取り早いし、スカートに隠された太もも、尻肉、パンツという絶景アングルは友人をきっと喜ばせてくれるだろう。
ゼミが終わると、さっそうと教室を出ていく坂本さん。こちらに顔を向けてくる友人をよそに、急いで彼女を追いかけた。一定の距離を保ちながらあとをつける。
最寄り駅に着き、タイミングよく到着した電車に乗り込む坂本さん。自分も慌てて飛び乗り、座席に座ってスマホをいじる坂本さんを一つ隣の車両からこっそりと眺める。
七駅目で彼女が電車を降りたので、自分も降りてついていく。地下鉄から地上に出る長いエスカレーターに乗ったとき、ここで撮ろうと決意。後ろを振り返るが誰もいない。今がチャンス。自分は、スマホに意識を向けている無防備な坂本さんのすぐ後ろにそっと立つと、スマホの動画モードをオンにした。そして、それをスカートの中にかざして、しばらくしてから手を引っ込めた。おそるおそる顔を上げるが、彼女はまだスマホに気を取られていた。よし、バレていない。二段下がってまた距離を取った。
地上に出て、商店街のほうを歩いていく坂本さんを尻目に、下りのエスカレーターに乗ろうとしたら、「ねえねえ」とチャラそうな金髪男に声をかけられた。
「あんたさぁ、盗撮してたよね?」
「えっ?」
「してたよね? ね? オレさぁ、見てたんだよねぇ、その瞬間」
「あ……」
「いやあ、ちょうどさぁ、エスカレーターで下りてるときにね、反対側であんたが女の子のスカートん中撮ってるのたまたま見ちゃってさぁ。あれっ、まさか、オレのこと気づいてなかった?」
「あ、いや……」
「んでさぁ、急いで下まで下りてさぁ、また上に駆け上がってきたってわけよ。まだデータ消してないよな? あぁ、間に合ってよかったぁ」
「いや、えと、そのぉ……あっ」
「っておいっ、逃げんなっ!」
さっと腕をつかまれてしまった。
「こらこらぁ、何逃げてんだよお前ぇ。おいっ、なめてんのかぁ?゛あ?」
「いや……」
「って何してんだおらっ!」
金髪男にスマホを取り上げられた。
「お前、今データ消そうとしてただろ。おいっ、なめた真似すんじゃねえぞゴラッ!」
「いや、その……」
「おらっ、警察行くぞっ警察」
「えっ、そ、それは、ちょっと……」
「ちょっとなんだよ?」
「いや、そ、それだけは、や、やめてくださぃ……」
「おいおいぃ、そんなに警察が嫌なんかよぉ」
金髪男の頬がにわかにゆるんだ。
「そんならさぁ、三万くれたら見逃してやるよ」
「へ?」
「たったの三万だぜ三万。なあ、よく考えてみろよ。もし逮捕でもされたらお前、罰金とかでもっとお金取られるかもよ? あぁ、前科もつくかもなぁ」
「え……」
「でもそれがさぁ、こっちはたったの三万で解放してやるって言ってんだよ。なあ、優しいだろオレ? ほらっ、さっさとよこせよ三万」
「いや、ちょっと……」
「スマホもちゃんと返してやるからさぁ、あくしろよ、ほらほらっ」
「でも、あのう、そんなには、持ってないんですけど」
「じゃあさ、どっかのATMでおろせよ。貯金ぐらいあんだろ? なあ?」
「は、はあ」
金髪男の頬がさらにゆるんだ。
「よし、じゃあ一緒についてってやるからさ。ほらっ、行くぞっ!」
金髪男に腕をつかまれたまま無理やり歩かされる。今、視界の隅で、友人と思しき姿が見えた気がした。彼がどんな表情をしているのか、怖くて振り向けなかった。
「なあ、お前がさっき撮った動画さぁ、あとでオレにもちゃんと見せてくれよな? あの子たしかに可愛かったし、そりゃ撮りたくもなるわなぁ、へへへっ」
でも、はっきりと嬉しそうな顔をしている金髪男を見ていると、なぜか心が安らいでいく。三万円はもちろん、五万円でも十万円でも惜しげなく渡してもいいと思えてしまった。そう、喜んでくれるだけで自分は幸せなのだから。(了)
執筆の狙い
久しぶりに投稿いたします。
なんとなく書いたらこうなりました。よろしくお願いいたします。